公益財団法人白鶴美術館

展覧会情報

2019年 春季展

本館

85周年記念白鶴美術館の中国陶磁器

―釉色への憧憬 ―宋時代を中心に―
概要

 当館の中国陶磁器コレクションの多くは、創立者嘉納治兵衛正久(1862~1951)により大戦末期に寄贈されましたが、既に、茶会や昭和9(1934)年、開館二回目の秋季展から公開されてきたものです。
 今回は、宋時代(960―1279)を中心に、それ以前の陶磁器を展示します。「宋磁」といえば、「砧(きぬた)青磁」や「天目(てんもく)」と呼びならわされる黒釉茶碗など、日本人を魅了してきた美しい釉色の器が知られています。20世紀に入り、さまざまな美術・工芸に対して学術研究が進むようになると、日本の伝統文化に浸透し、家宝や茶道具の名物として愛されてきたこれらの器もその対象となりますが、その美しさは改めて高い評価を受ける中国美術として受け継がれています。
 当館では昭和24(1949)年、開館15周年の企画展「天目・青磁展」が開催されています。戦後間もない当時、学術的視点からも注目すべき中国陶磁器展となったことでしょう。
この春季展が当館85周年記念となりました。作品陳列とともに当館における中国陶磁と展覧会について振り返ってみたいと思います。

主な展示品
唐三彩鳳首瓶(とうさんさいほうしゅへい)
中国 唐時代
唐三彩鳳首瓶
唐三彩鳳首瓶(とうさんさいほうしゅへい)
中国 唐時代

 唐時代の三彩陶器。白化粧の上に透明釉をかけ、更にその上に緑色と黄褐色の釉薬を流しがけしている。緑と黄褐色が交り合っていることが本作品の大きな特色である。唐三彩の作例の多くは墓から出土している。
 本作は、鳳凰を象り、注ぎ口がその顔となっており、やや歪んだ口を開け、目は垂れて窪んでいる。雄々しさというよりも親近性を備えている。頸に四本のリング状の突起が付けられるが、これは古来、鳳凰や龍といった神獣に表された標識の名残りの可能性がある。頭部と胴部を繋ぐ把手(取っ手)は植物の茎の形象を採り、葡萄の実のようなものを下部に付けている。胴部は、鳥の柔らかな身体を思わせるように中央よりやや下側でぷっくりと膨らむ。
 外面には多くの装飾が施されるが、中央部分には鳳凰を表す計五つの円相が配され、円相の間には植物文様、またこれらの上下には植物文を入れる蓮弁形がそれぞれ表される。これらの文様は全て貼花と呼ばれる型押しによるもので、実のところ数種類の型しか用いずに制作され、上下に反転させるなどして変化をつけている。以上の文様の上下には更に素面の蓮弁が配される。
 本作品のような形象の水瓶は、ペルシアやソグディアナなどの西方地域から伝わった金属器を範としたものと考えられ、金属器に表された文様の立体性を貼花によって再現したと推測される。

重白地黒掻落龍文梅瓶(しろじくろかきおとしりゅうもんめいぴん)
中国 北宋時代
白地黒掻落龍文梅瓶
白地黒掻落龍文梅瓶(しろじくろかきおとしりゅうもんめいぴん)
中国 北宋時代

 磁州窯はもと、10世紀中頃(五代末~北宋時代初期)に始まり、現代でも操業を続けている河北省邯鄲市近郊の磁県に位置する窯場をさす呼び名でした。ところが、中国北部(河南、山西、陝西、山東、遼寧、寧夏、内蒙古など)の諸窯でよく似た陶器が焼かれていたため、現在ではそれらを含む総称として用いられています。この龍文梅瓶は本来の磁州窯の代表的窯場・観台窯(元末・明初頃生産中止)で焼造されたと看做されています。北宋~金時代に盛行した白地黒掻落の現存作品中、傑作の誉れの高いものです。
 白地黒掻落とは、素地全体に白土を化粧掛けし、更に全面に黒泥(鉄絵具)をかけ、この瓶の場合、龍文と肩、裾の捻じ花風の花弁文を細かく線刻した後、文様以外の黒泥を丹念に掻き落し透明釉を施して焼き上げる技法です。石炭を燃料とする饅頭形の窯で焼かれた故か、釉が僅かに黄色味を帯びて失透しています。また全面に細かい貫入が入ることにより、白黒の対比が和らいでいる感じがします。
 瓶の胴部を廻(めぐ)る口を大きく開けた三爪の龍は、ぐっと見張った眼、力強く縁取られた豊かな鬣(たてがみ)、大きく波打つ背鰭(せびれ)、巻き返った魚尾をもつ異形のもので、しかも前脚が2本しかなく、特に振りかざした右前足の掌に当たるところには、肉球表現を意図したと思われる三つの円文が刻まれています。
 ところで梅瓶とは口が小さく、肩が大きく張り、胴の途中から急にすぼまるこの手の瓶の中国における呼称で、器面に「清沽美酒(せいこびしゅ)」と書かれた例のあることから酒壺として使用されたと考えられています。また、小説の挿し絵で、結婚の申し込みに酒を用意した場面に、梅瓶が描かれたりしています。その名の由来についてははっきりしませんが、本来、酒瓶であったものを、花生として梅一枝を挿して鑑賞したところから、梅瓶と呼ばれるようになったとも言われています。

青磁鳳凰耳花生(せいじほうおうみみはないけ)
中国 南宋時代
青磁鳳凰耳花生
青磁鳳凰耳花生(せいじほうおうみみはないけ)
中国 南宋時代

 しっとりした粉青色(ふんせいしょく)の青磁釉がたっぷり掛かり、器胎の微妙な起伏が釉層(中の気泡は細かく密)の厚薄を促し色の諧調として現れます。陶工が青磁の色を追い求め工夫を重ねた末の結論の一つがこれだったのでしょうか。この繊細で気品ある優美な形象を先人は深く受け止めました。
 それを物語る逸話が『槐記(かいき)』<近衛家熙(このえいえひろ)(一六六七~一七三六年)の侍医、山科道安(やましなどうあん)が家熙より伺った貴重な話を日記風に記録したもの>に記されています。「(前略)キヌタ青磁ノ至極ナリ、(中略)後西院ノ勅命ニテ千聲ト号ス、擣月千聲萬聲ト申ス御心ニヤト申上グ、左アルベシトノ仰ナリ、(中略)此ワレノアル故ニ、利休ガキヌタト名付ルトナン、響アルト云ウ心ナリト仰ナリ」、これは陽明文庫所蔵の貫入(かんにゅう)のある鳳凰耳花生と静嘉堂文庫美術館所蔵の貫入があり胴部が大きく割れて鎹(かすがい)が打たれている鯱耳(しゃちみみ)花生をめぐっての話です。家熙は後西院(ごさいいん)(在位一六五四~六三年)命名の典拠を白楽天の『聞夜砧』の詩句「誰家思婦秋擣帛 月苦風凄砧杵悲 八月九月正長夜 千聲萬聲無了時(後略)」だと考え、当然、千利休(一五二二~九一年)命名の背後にも同詩の存在を見ていました。もしかすれば、彼らが青磁の花生を見つめる時、遠く離れた夫を想う女性が心を込めて砧(きぬた)上の衣を杵(きね)(槌(つち))で擣(う)つ音が耳に響いていたのではないでしょうか。

禾目天目茶碗(のぎめてんもくちゃわん)
中国 南宋時代
禾目天目茶碗
禾目天目茶碗(のぎめてんもくちゃわん)
中国 南宋時代

 福建省にある建窯は、世界に名高い「曜変天目」を産した窯で、20世紀初めの窯址踏査以来、文献研究に加えて、考古・自然科学的学術調査が進められてきた。「禾目」という釉調は、稲穂の先端の針状部分に見立てたものだが、元来、これは兎の毛並みにたとえて「兎毫(とごう)」と呼ばれてきたものである。
 くびれをわずかにもたせた口縁部、胴下部にたっぷりと垂れる釉溜まりが生み出す重厚さ、ざらつきのある黒褐色の小さな高台まで、すっきりと整ったシルエットは、いかにも「建盞」(建窯の茶碗)らしい。
 多くの類例は、この茶碗のような茶色を呈しているが、北宋時代、風流天子として名高い北宋時代最後の皇帝、徽宗(きそう:1082~1126)は「兎毫(とごう)」釉について、青黒い筋のものを最上と述べている。日本においては室町時代、兎毫は曜変・油滴とともに高級唐物茶器として挙げられた。その美は日本文化に浸透し、受け継がれて現在も私たちを魅了し続けている。

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